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三条大橋東詰の乱(補遺その2) [夢のあと]

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(写真は現在の京阪三条駅)
先日、烏丸☆文麿さま(http://densyagokko.blog.fc2.com/)より、単なる組織論ではなく、血の通った人同士のやりとりを想像するのがおもしろいと思うとのコメントをいただきました。
おっしゃるとおり、企業同士の争いとは言え、それを主導する人々の個性のぶつかり合いでもあり、とくに明治後期から昭和前期にかけての時代は、今よりも企業を主導する個人の個性が強く出た時代でもあったといえます。
その代表が、以前ご紹介しました小林一三(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2016-04-24)、岩下清周、福澤桃介、松永安左衛門(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2019-10-08)などですが、小説家でない私には、これらの人々の動きを活写する筆力などありませんので、今回の記事「三条大橋東詰の乱」の一方の主人公ともいえる登場人物をご紹介して、ご想像の一助としたいと考えます。
創業期の京阪電気鉄道の、実質上の経営者であった太田光凞(1874-1939年)です。
氏は、阪急の小林一三や大軌の金森又一郎(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2019-02-01)の1歳下ですが、この二人とは違ってエリートで、東京帝国大学を出たのち鉄道作業局に奉職。高等文官試験にも合格します。
しかし組織改編後の帝国鉄道庁の運輸部庶務課長のとき(1907年)、マエストロ朝比奈隆の実父である渡邊嘉一(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2019-10-05https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2019-08-27)に、優秀な人材のあっせんを依頼されたのを機に、自ら職を辞して創設当時の京阪電気鉄道に入社。
土居通夫(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2016-05-23)社長の下、庶務課長として、建設中だった京阪本線の線路選定や用地買収等の実務を担当して、1910年に天満橋-五条間、1915年には三条までの延長線を開通させます。このとき、折衝の相手だった京都市の市長は、西郷隆盛の庶長子である西郷菊次郎(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2020-02-16)でした。
その後は、土居の逝去により跡を継いだ岡崎邦輔(https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2016-08-21)社長の下で取締役、常務取締役として会社を運営し、さらに1925年に岡崎邦輔が社長を辞すると、社長に就任します。
この時代は、京阪が、蒲生信号所-守口間の高架複々線や新京阪線の建設、京津電気軌道の合併、奈良電気鉄道、阪和電気鉄道、信貴生駒電鉄への出資、電力事業の和歌山への進出などを展開していた京阪史上最大の拡張期にあたります。まさに太田の面目躍如といったところでしょうか。
しかし、こうした積極経営は、大正の末ごろからの社会状況の変化によって、やがて行き詰まりを見せるようになり、太田は会社の立て直しに奔走するものの果たせず、1936年には会長、1939年には相談役に退き、その直後に逝去しています。
帝大卒のエリートながら、小林一三、金森又一郎に負けない個性的な人物であり、人生であったといえるでしょう。
なお氏は、会長に退いた後の1937年に自叙伝を執筆しており、その中で、三条延長問題や京阪梅田線延長問題、五大私鉄疑獄事件などについて結構、洗いざらい書かれており、その自叙伝は現在、ネット上でも公開されています。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/keihan3.htm

地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み:関西1 阪神・阪急・京阪

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hideta-o

nice!をいただいた皆様、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-04-20 14:06) 

烏丸文麿(電車ごっこ♪)

こんにちは。
 東京だと早川徳次さんと小林翁門下の五島慶太さんのやりとり、水面下であったことを繋げて想像してみると、どきどき、ハラハラしたりして、わくわくしていく自分がいることに気がついて、ボクは鉄道史、社史の趣味に嵌まりました。

 松永安左エ門さんの御稿は、電気泥棒が窃盗罪になるとの大審院判決が下ったのは明治時代であったなと、余計なことを思い出しながら、楽しく拝見しました。

 それと本稿の説明も興味が尽きませんでした。また、ご紹介の太田光熈さんの自伝抜粋は面白かったです。『電鉄生活三十年』を渉猟してみたいと思いました。

知識の引出から取り出してみたりして、楽しく拝見しました。
by 烏丸文麿(電車ごっこ♪) (2020-04-25 17:33) 

hideta-o

烏丸文麿さま
ご訪問ありがとうございます。拙稿をお楽しみくださったとのこと、幸いです。ありがとうございます。
by hideta-o (2020-04-26 17:31) 

hideta-o

烏丸文麿さま
盗電でひとつ逸話を思い出しました。渡邊嘉一の庶子で、長年に亘って大阪フィルの常任指揮者を務め、名指揮者と謳われたマエストロ朝比奈隆のエピソードです。
マエストロは、1931年に京都帝大を卒業して鉄道省を目指したものの、高等文官試験に落第。鉄道官僚だった兄の紹介で阪急に就職し、音楽への夢を捨てきれずに退職するまでの2年間に、将来の幹部候補生ということで、社内の様々な職種を経験しています。
たとえば阪急電車の運転手、阪急百貨店の売り子などですが、その中に、配電事業部門の盗電の摘発というのがありました。
ちょっと背景を説明しますと、当時の電鉄会社の多くは、沿線で配電事業も展開していました。また、当時の盗電というのは結構簡単で、近くの電柱の電線に勝手に配線をつないで家の中に取り込む手口が多かったといいます。摘発は、その証拠写真を撮ったあと工事人夫に配線を切断させ、家に乗り込んでいって契約を迫るというものだったそうです。
by hideta-o (2020-04-27 09:41) 

烏丸文麿(電車ごっこ♪)

おはようございます。
 エピソードのご紹介ありがとございます。朝比奈隆さんは小島さとさんとのお子でしたね。鉄道院技師の朝比奈林之助さんの養子になられてます。林之助さんは渡邊嘉一さんの東洋電機製造の役員にもなられています。ただ、隆さんが嘉一の実子だと知ったのは、林之助夫妻が亡くなられた後でした。

 ボクはクラシック音楽ファンなので、朝比奈隆さんの出自については少しは知っていました。阪急電車の運転手さんや車掌さん、阪急百貨店の売り子さんをしながら、音楽活動を行い、入社して数年で阪急を退社されていますね。

 盗電については、隣家から線を勝手に引っ張るなど、随分とお手軽な手口が横行したそうですが、まさか、朝比奈さんが盗電の摘発までしていたとは思いませんでした。

 それから『フォース橋と日本人技術者とその子』の御稿を拝見しました。
https://ho-blog.blog.ss-blog.jp/2019-08-27
by 烏丸文麿(電車ごっこ♪) (2020-04-29 07:50) 

hideta-o

烏丸文麿さま
再度のご訪問、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-04-30 09:08) 

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