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坂の上の…(その32) [艦]

 江藤淳「海は甦える」 第二部を読んだ。

 第二部は日清戦争後の下関講和会議から、日露戦争後のポーツマス講和会議終了後、帰国した全権大使小村寿太郎を海軍大臣山本権兵衛と首相桂太郎が新橋駅に出迎えるまでを描いている。
 特に下関講和会議における外務大臣陸奥宗光の活動には多くの頁が割かれている。また日露戦争では、旅順口奇襲、仁川沖海戦から蔚山沖海戦までの海戦の様子が描かれているが、これらの章には、この物語の本来の主人公であるはずの山本権兵衛は殆ど出てこない。
 前者は外交官の仕事であるから仕方がない。また、実際の海戦の段階になると軍政家としての山本の仕事は既に終わっているのでこれも仕方がないにしても、やはり何となく物足りない気がする。
 また肝心の日本海海戦については具体的な記述がない。遣米特使の金子堅太郎が、日本が勝利したという電文を受け取る描写のみである。ポーツマス講和会議も省略されている。物語を急いで終わらせようとしている感じがする。
 そして巻末には、年老いた山本権兵衛が、関東大震災の起こるまさにその日に第二次内閣を組閣する様子が、エピローグとして描かれている。
 本来、物語はこの第二部までで終わりだったのかも知れない。エピローグのあとの作者のあとがきにもそのような雰囲気がにじみ出ている。
 そのため、第三部以降を読むべきかどうか今悩み中である。
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坂の上の…(その31) [艦]

 「比叡」を造った。今回、初めて展開図から自作をしてみたが、出来はいかがであろうか(写真手前、奥は「扶桑」)。
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 「比叡」は、金剛型コルベットの2番艦として明治11(1878)年に英国ミルフォード社で竣工。以前記したように1890年には姉妹艦「金剛」とともに、沈没したトルコ軍艦エルトゥールル号の生存者をコンスタンチノープル(イスタンブル)まで送り届けるという大役を果たしている。
 日清戦争の黄海海戦では、あろうことか「松島」率いる主戦隊に加えられ(「畝傍」の代わりであろうか)、敵弾を受けて、沈没こそ免れたものの大破して戦列を離れている。
 当たり前であろう。鋼鉄で鎧われた最新の軍艦同士が互いの鎧を打ち破るための砲弾を撃ち合う戦場に、鉄骨木皮で鉄板張りの旧式艦が紛れ込めば大破して当然といえよう。むしろ沈まなかったのが不思議なくらいである。
 しかし艦長以下、乗組員達は奮戦している。速度が遅いため戦隊に取り残されそうになった際に、迫り来る「定遠」と「来遠」の間をすり抜けて危機を脱出するという大胆な行動をとり、その勇気を称賛されている。
 日露戦争の際には、さすがに第一線から退いて舞鶴鎮守府警備、および旅順港警備の任に就いている。
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坂の上の…(その30) [艦]

 etsutanさんの新作「浪速」を組み立てた(写真手前、奥は「秋津洲」)。
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 「浪速」は、帝国海軍最初のElswick Cruiserとして明治19(1884)年に英国アームストロング社で竣工し、その年に日本に回航されている。回航は、初めての試みとして帝国海軍軍人のみの手で行われ、山本権兵衛も回航委員として参加している。
 日清戦争時には、後の提督東郷平八郎がこの艦の艦長を務め、英国商船「高陞号」に対する処置の是非の問題で世界にその名を知られることとなった。黄海海戦には「吉野」率いる遊撃隊の殿艦として参加している。
 新製時には艦の前後に26cm単装砲を1門ずつ備えていたが、過剰と判断されたのか日清戦争後に15cm速射砲に交換されている。
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坂の上の…(その29) [艦]

 江藤淳「海は甦える」第1部を読んだ。日露戦争の勝利に至る初期の帝国海軍を育て上げた山本権兵衛の一代記で、全5部からなる。第1部は出生から日清戦争の終結まで。ただしこの5部作は出版元で在庫切れの状態で、現在のところ古書でしか入手できない。再版を望む。


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坂の上の…(その28) [艦]

 etsutanさんの新作「吉野」を組み立てた(写真手前、奥は秋津洲)。
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 「吉野」は、明治26(1893)年に英国アームストロング社で竣工。翌年、日本に回航されて直ちに日清戦争に投入され、航海海戦において遊撃隊の旗艦として帝国海軍の勝利に貢献している。ちなみに日本への回航の際には、回航委員として秋山真之も参加している。
 「坂の上の雲」において清国の「定遠」「鎮遠」を狩る猟犬云々の記載があったことから、勝手に精悍な小型艦をイメージしていたが、こうして組み立ててみると結構な大型艦である(全長が鎮遠より長い109.7mもある)。日本犬ではなく、ドーベルマンやシェパードのような獰猛な洋犬といったところか。
 機関の改良による出力増強等によって当時の水雷艇並の23ノットでの航行を可能とし、世界最速を謳われた。後退角のついた煙突がその速さを体現しているようである。
 チリ海軍の「エスメラルダ」(後の帝国海軍巡洋艦「和泉」)等を嚆矢とするアームストロング社製防護巡洋艦、いわゆるElswick Cruisersの一つの到達点といっても過言ではない。
 また「秋津洲」と比べてみると砲の配置などがそっくりであり、「秋津洲」がElswick Cruiserを手本として造られたことが良くわかる。
 本艦の好成績に気を良くした帝国海軍は、日清戦争後に同形艦「高砂」をアームストロング社で建造させている。しかし日露戦争において、「吉野」は「春日」の衝角によって船腹を破られて、また「高砂」は触雷して、それぞれ日本海海戦前に沈没している。
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坂の上の…(その27) [艦]

 吉村昭「海の史劇」を読んだ。ロジェストヴェンスキー提督がバルチック艦隊を率いてクロンシュタット軍港を出発してから、日本海海戦に破れて僅かな幕僚達とともにペテルブルグに戻るまでを、極力抑えた筆致で描いた作品である。バルチック艦隊の航海と日本海海戦を「坂の上の雲」とは異なる視点で読むことが出来る。


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坂の上の…(その26) [艦]

 秋月達郎「海の翼」を読んだ。
 日清戦争前の1890年に和歌山の串本沖で発生したトルコ軍艦エルトゥールル号の座礁沈没事故によって被災した同艦の乗組員が当時の日本人の手によって救われたこと、それからおよそ100年後のイラン−イラク戦争の際にイランに取り残された日本人がエルトゥールル号の恩返しとしてトルコの人々によって救われたことを描いている。
 エルトゥールル号事故の際には、生存者を故国に送り届けるため装甲コルベット「金剛」「比叡」の2艦がイスタンブルに派遣されている。このうち比叡には、当時少尉候補生であった秋山真之が乗艦していた。

海の翼 (新人物文庫)

海の翼 (新人物文庫)

  • 作者: 秋月 達郎
  • 出版社/メーカー: 新人物往来社
  • 発売日: 2010/01/05
  • メディア: 文庫



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坂の上の…(その25) [艦]

 etsutanさんの最新作「秋津洲」を組み立てた(写真手前。奥は橋立)。
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 「秋津洲」は、三景艦4番艦の代わりに独自設計により、明治23(1890)年に横須賀海軍造船所で起工され、先に起工していた「橋立」より短期間で同じ明治27(1894)年に竣工している。「浪速」等の英国式の設計を参考にしたと思われる堅実な艦形をしており、設計、施工に「橋立」ほど手間がかからなかったのであろう(ただし、初めての設計らしく煙突の位置などにぎこちなさは残るが…)。
 日清戦争では「吉野」率いる遊撃隊に加わり、高速を生かした迅速な艦隊運動によって勝利に貢献している。日露戦争にも第3艦隊第6戦隊の一員として参加している。
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坂の上の...(その24) [艦]

 新人物文庫「軍談-秋山真之の日露戦争回顧録」を読んだ。
 4部構成で、第1部は、大正6年に「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山真之海軍中将(当時)が日露戦争を回顧して著した、本のタイトルにもなっている「軍談」、第2部、第3部は昭和10(1935)年に東京日日新聞、大阪毎日新聞が軍関係者から採録した、日露戦争当時のエピソードを集めたインタビュー集で第2部は海軍編、第3部は陸軍編、そして第4部はロシア側の証言を集めたもの。
 日本側のエピソードは「坂の上の雲」の記述と一致するものが多いが、ロシア側の証言には目新しいものも散見される。


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坂の上の…(その23) [艦]

 明治の軍艦の艦名について。
 まず「扶桑」は、中国の伝説で東海の日の出る処にあるという神木の名前であり、転じて日本の美称とされる。
 「鎮遠」は元々清国の船であるので命名法が大きく異なる。遠く異国を鎮めるという意味合いである。同様の発想で「定遠」「済遠」などがあった。この「遠」は日本のことで、やがて日本を制圧するという清国の強い意思の顕れであったとする説があるが、当時の清国にそこまでの意図があったかどうか。
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 「浪速」「高千穂」「畝傍」の3艦は単に地名を付したものではなく、これは以前紹介した伴野朗「九頭の龍」からの受け売りであるが、神武東征伝説に基づいて名づけられている。すなわち記紀伝承によれば、高天原から天下った瓊瓊杵尊の子孫である神日本磐余彦、のちの神武天皇らは、それまで住まいしていた日向国「高千穂」宮を出、瀬戸内海を経て「浪速」津に上陸して大和を目指すも、先住民である長髄彦の抵抗に合って一旦退却。和歌山から再上陸し、長髄彦を倒して大和に入って「畝傍」橿原宮に皇居を構えられたという。
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 三景艦は、言うまでもなく日本三景、つまり奥州「松島」、安芸「厳島」(宮島)、丹後「橋立」(天橋立)に因む。
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 三景艦の「橋立」に続いて横須賀海軍造船所で建造された「秋津洲」は、日本の本州の美称であり、大和の国に入った神武天皇が山上から国見をされて「蜻蛉のトナメ(交尾)の如し」と言われたという伝説に基づく。
 日本では蜻蛉は、作物の害虫を食べる益虫として大切にされてきた。西洋において単に長い蝿(dragonfly)と呼ばれているのとは大違いである。
 この点、蝙蝠と似ている。西洋では蝙蝠は、例えばイソップ物語にもあるように動物でも鳥でもない変な生き物とされ、バンパイア伝説と結びついて気味悪がられるに至るが、日本では、やはり害虫を食べる益獣として珍重されたのである。蝙蝠は、長崎名産の一つ福砂屋のカステラのマークにもなっている。
 ちなみにetsutanさんの次回作はこの「秋津洲」であるという。今から楽しみである。
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