SSブログ

再び京阪梅田線(その2) [夢のあと]

 その資料というのは、開業当初から京阪の実質的な経営者であった太田光凞の回顧録「電鉄生活三十年」〔1938(昭和13)年発行〕です。こちらのページに抜粋が掲載されています。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/kansai/keihan3.htm
 この著書の「16 城東線払下問題」には太田が、城東線の旧線の払い下げについて、当時の鉄道院副総裁 石丸重美と以下のような折衝をしたことが記載されています。
「そこで自分はこの城東線の払下を受けることが、京阪として最も得策であると考え、政府でその改築に要する費用概算570万円を京阪で負担して、この払下を受ける決心をなし、一日鉄道院に石丸氏を訪うて、その旨を通じたのであった。この自分の提案には流石の石丸氏も驚いて「京阪でそんな莫大な金を出してもよいか」とのことであったので、自分は「梅田へ乗入が出来るならば、570万円はおろか、7~800万円の金を惜しむところでない」と答えると、石丸氏は重ねて「貴社としては大問題であるが、重役会の決議は経ないでもよいか」と念を押されたので、自分は「会社の重役には内々同意を得ているから、万間違いはない」と答えたのであるが、石丸氏は肯その点を余程心配されたようであった。」
 太田が石丸と折衝した日付は不明ですが、このあと京阪は、1920(大正9)年に正式に払い下げの出願をし、同年の鉄道院から鉄道省への改組を経て、1921(大正10)年には払い下げが認可されたようです。
 この払い下げで京阪が鉄道省に支払ったのは結局、最初に出た570万円。ただ、払い下げを受けたあとに標準軌の電化新線や梅田駅その他の設備を建設することを考えると、小林が予想した一千万円以上の費用が必要だっただろうことは間違いありません。しかし岡崎邦輔社長の下で太田が京阪を経営していた時代は、蒲生信号所-守口間の高架複々線や新京阪線の建設、京津電気軌道の合併、奈良電気鉄道、阪和電気鉄道、信貴生駒電鉄への出資、電力事業の和歌山への進出などを展開していた京阪史上最大の拡張期にあたり、当時の京阪にとってこれ位の出費は何ともなかったのかもしれません。
 ところが大正の末ごろから社会状況が変化を来たし、京阪の経営にも暗雲がたちこめてきます。

京阪特急―鳩マークの電車が結んだ京都・大阪間の50年 (JTBキャンブックス)

京阪特急―鳩マークの電車が結んだ京都・大阪間の50年 (JTBキャンブックス)

  • 作者: 沖中忠順
  • 出版社/メーカー: ジェイティビィパブリッシング
  • 発売日: 2007/02/28
  • メディア: 単行本


nice!(5)  コメント(2) 

nice! 5

コメント 2

hideta-o

ワンモアさま
scnitzerさま
Cedarさま
nice!ありがとうございます。
by hideta-o (2016-08-24 09:53) 

hideta-o

FTドルフィンさま
ネオ・アッキーさま
nice!ありがとうございます。
by hideta-o (2016-08-27 23:30) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。