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京阪梅田線(最終回) [夢のあと]

 この記事の最終回にあたってもう一人、紹介しておきたい人物がいます。大阪商業会議所第七代会頭の土居通夫です。

通天閣―第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯

通天閣―第七代大阪商業会議所会頭・土居通夫の生涯

  • 作者: 木下 博民
  • 出版社/メーカー: 創風社出版
  • 発売日: 2001/05
  • メディア: 単行本


 土居は、1838年に宇和島藩の下級武士の家に生まれ、幕末維新期に土佐の坂本龍馬、後藤象二郎、薩摩の五代友厚、中井弘らと出会い、維新後は徴士として新政府に出仕します。
 新政府では、旧知の五代友厚の下で外国事務局に勤め、次いで同郷でのちに大津事件で有名になる児島惟謙らとともに裁判官となったのち、請われて大阪の豪商鴻池家の顧問に就任して大阪財界にデビューします。そして大阪電燈、阪鶴鉄道など様々な企業の創設に関わったり、大阪商業会議所の議員として再び五代友厚を補佐したりし、さらに五代亡きあとは彼の遺志を継いで大阪の経済発展に尽力します。
 彼は争いごとが嫌いで人付き合いがよく家族、親族や友人を大事にし、また大阪のためになるとあれば何でも引き受けて次々と様々な企業や団体の役員、社長、会長などに就任していった結果、大阪だけでなく日本の財界で重きをなすに至ります。
 そんな土居でしたが、なぜか親子ほど歳の離れた小林一三に嫌われてしまいます。それも尋常でない嫌われ方で、例えば小林は、土居をモデルにした匿名小説で彼のスキャンダルを暴露したり、土居の死後に依頼された追悼文集に皮肉を込めた追悼文を寄稿したりもしています。
 小林が土居を嫌ったきっかけは、彼の大阪財界へのデビュー戦であった阪鶴鉄道の株主総会にあります。
 箕面有馬電気軌道は、国有化されて無くなる阪鶴鉄道の株主を救済するために計画されたため、まず阪鶴鉄道の解散を株主総会で決議し、次いで箕有電軌の設立へと株主達を誘導するのが、小林に与えられた最初の仕事でした。
 しかし株主達は、自分たちが阪鶴鉄道に投下した資本の回収に躍起になるあまり、小田原評定を続けるなどして小林の前に立ちはだかります。そして土居は、彼らの中で一番地位が高かったため、本人の意思に関わらず、小林の仕事の邪魔をする連中の頭目と見做されてしまったのです。
 さらに、小林の土居嫌いを決定づけたのは岩下清周の失脚でした。土居が、岩下に近い政友会の原敬と対立していた総理大隈重信と親しかったこと、岩下の失脚後に北浜銀行の役員に就任したことなどから、小林は土居が岩下追い落としの首謀者と考えたようです。
 しかし、上に書きました土居の性格を見ましても、策謀を巡らして人をおとしめることなどはありえなかったように思われます。しかも土居は、実は岩下とも親しかった上、北浜銀行の役員への就任も、大阪の経済的な混乱を避けるために大阪府から依頼されたものでした。そのため、小林による土居への嫌疑は濡れ衣だったと私は考えています。
 その土居は、京阪電気鉄道に請われて1912年に社長に就任し、1917年に亡くなるまでその地位にありました。ちょうど小林が、京阪に野江延長線の権利の買い取りを迫っていた時期と重なります。
 小林としては、土居に対して岩下の敵討ちをするつもりだったのかもしれません。またそう考えると、小林が野江延長線の特許を取り下げたのが、土居が亡くなったのと同じ1917年であることも、やはり関連しているような気がしてなりません。京阪への攻撃は土居の死を持ってひとまず終わったのです。そしてその後の攻撃の矛先は阪神電気鉄道に向かいますが、このことについては稿を改めます。
 いずれにしろ小林の箕有、京阪、そして大阪市の間には負の三角関係が成り立ってしまい、箕有の野江延長線、および京阪の梅田線はどちらも実現しませんでした。そして鉄道省だけが、城東線の高架新線を手に入れて今日に至っています。
 もしも京阪の梅田乗り入れが実現していれば、その後の関西の私鉄の関係は違ったものになっていたかもしれません。あるいは小林一三がいた以上、あまり変わらなかったかもしれませんが。(この項終わり)
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hideta-o

ワンモアさま
nice!ありがとうございます。
by hideta-o (2016-05-25 21:57) 

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