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三条大橋東詰の乱(その2) [夢のあと]

前史(京都市vs京電)
ご存じのように、日本初の営業用の電気鉄道として、京都電気鉄道(京電)が京都駅前から伏見まで開業したのが1895(明治28)年。
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(写真上は梅小路公園のN電、下はJR京都駅横の電気鉄道事業発祥地の碑)
このとき電力は、京都市が琵琶湖疎水に設けた蹴上発電所から供給を受けています。
つまり京電と京都市は、先に書きました京都の近代化を目指す施策の一環として協力関係にあり、京電は京都市の協力のもと、岡崎で開催された内国勧業博覧会の会場への路線などを次々と開業してゆき、最盛期には、京都市内に20kmを超える路線を有するまでに拡大します。
しかし、京電は江戸時代以来の狭い街路にそのまま線路を敷くのが精いっぱいであり、京都市が目指した市内の近代化には十分に対応できないことが判ってきます。
すなわち京電は、既存の細い街路を改造せず (できず) に、その細い街路に合わせて主に単線、急曲線で線路を敷きます。中には、曲がりきる曲線半径が確保できずに、本線上にターンテーブルを設置した場所まで現れます。
京電はあくまでも私企業であって、街路を改良してまで路線を敷く意思も、そうしなければならない義務も、沿線の建物を立ち退かせる権利も、そしてそれらを実行する資金力もなかったのです。
そこで、江戸時代と変わらない入り組んだ狭い街路が広がっていた市内に、直線で幅の広い街路を通して市街地の近代化を図るために、京電の市営化や、市営による独自路線の敷設が京都市会で議決され、これを受けて時の市長 西郷菊次郎の主導のもと、京都市は、京都市三大事業の一つとして、「道路拡築および市電敷設」を始めます。ちなみに、三大事業のあとの二つは「第二琵琶湖疎水の建設」と「上水道の整備」でした。
西郷菊次郎は、維新の三傑の一人である西郷隆盛が、奄美に島流しという形で安政の大獄の難を避けていた1861(万延2)年に、現地で彼の世話をしていた島妻(薩摩藩にはそういう制度があったようです)の愛加那との間に儲けた庶長子。その後、鹿児島の西郷家に引取られて12歳の時に米国留学をし、西南戦争には父に従って参戦するものの銃創を負い、その傷がもとで片足を切断。官軍に投降し、隆盛の弟で官軍側にいた従道に引取られてその後、23歳で外務省入り、再度の米国留学、宮内省、台湾総督府を経て、1904(明治37)年から1911(明治44)年まで京都市長を務めています。
京都市の新路線の建設は1911(明治44)年に開始され、翌年以降、烏丸線、千本大宮線、四条線、丸太町線、七条線、今出川線、東山線が次々と開通し、1917(大正6)年までに、のちの京都市電の大まかな骨格が出来上がります。
(市電1型)
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一方、京都市は、1912(明治45)年に、市電と重複する区間の共用を京電に申し入れますが、京電側はこれを拒否、その後も京電は、京都市による路線買収の申し入れを再三にわたって拒否し続けますが、1918(大正7)年に至って買収を受諾し、全路線を京都市に譲渡します。
これにより、京都市による市内交通の独占は完成するはずだったのですが、京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線が1910(明治43)年に五条まで、1915(大正4)年には三条まで延長開業すると、市電との平面交差が京阪本線の3箇所で発生し、京都市会で交通障害が問題視されることになります。(この項つづく)

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コメント 3

Take-Zee

こんにちは!
車体の前面の網状の物は・・・
前を歩く人間を引かないように掬い上げる
装置だそうで復元車でも珍しいですね
by Take-Zee (2020-02-16 16:17) 

hideta-o

Take-Zeeさま
ご訪問ありがとうございます。救助網といいます。路面電車の車体が大きくなるにつれて、運転台の下に設置されるようになり、さらに道路上を走る車が増えて人が歩道に追いやられるようになると、設置されなくなりました。今は見ないですね。
by hideta-o (2020-02-16 16:53) 

hideta-o

nice!をいただいた皆様、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-02-18 08:41) 

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