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箕有野江線(その4) [夢のあと]

 天六の周囲を少しだけ探索。まずはこちら。天六阪急ビルの跡地に建つ高層マンションの低層階部分。スーパーマーケットの阪急OASYSが入っています。天六阪急ビルをイメージしたデザインとのことですが、さて。
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箕有野江線(その3) [夢のあと]

 ようやく天六に到着ですが、ここでご注意。箕有野江線は未成、大阪市電は既に廃止、そして地下鉄は地下を走っていますので、ここから先しばらくの間、単なる道の写真ばっかりになります。撮影中に気づきました。自分でもどの写真がどの道路か分からなくなるぐらい似たような写真ばかりですが、しばらくご辛抱ください。天六の交差点を時計回りに見ます。
 まずは天神橋筋の北浜方面。この路上を、1915(大正4)年に開通した市電第三期線の天神橋西筋線が走っていました。今は、道の下を地下鉄堺筋線が通っています。道の幅員は12間より拡幅されており、現在は片側3車線×2の6車線+両側に歩道があります。
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箕有野江線(補遺の補遺) [夢のあと]

 前回の記事の、道路についての記載を訂正しました。大阪市が建設した道路の幅員は「12間」で間違いないのですが「軌道敷の両側にそれぞれ2車線分の車道+歩道」は誤りでした。実際は「軌道敷の両側にそれぞれ2車線分の車道」です。堺筋などはその後、歩道が追加されて最初の記載のようになりましたが、その際に幅員はさらに拡幅されています。先走り過ぎました。
 また私鉄の併用区間について「お粗末」としたのも訂正します。言い過ぎでした。「幅員8間程度」とします。
 ちなみに箕有の梅田-北野間の併用軌道区間は、大阪駅前ということで、幅員はそれなりに広かったようですが、ずっとあとに、京都線の線路を増設して現在の3複線とする際に利用されて、今は幅が狭くなっています。

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箕有野江線(補遺) [夢のあと]

 前回、箕面有馬電軌の野江線がいまの都島通に沿って伸びる予定だったことを書きましたが、誤解を生じないために少し説明を加えます。
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箕有野江線(その2) [夢のあと]

 3連休の最終日、まずは南海で天下茶屋。地下鉄堺筋線の券売機で大阪市交通局の1日乗車券「エンジョイエコカード」土日祝用600円也を購入して梅田へ。
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箕有野江線 [夢のあと]

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 1917(大正6)年発行の「歌劇十曲」には、先に引用しました岩下清周の私鉄統一案に関する「・・・まぼろしの消えゆく様に消えました。」に続いて、「野江線は既に大阪市の経営に移りました。」とあります。これはどういうことでしょうか。たしかWikiの「京阪梅田線」の項によれば、箕有の野江延長線の特許は大阪市の妨害によって失効させられたことになっていたはずですが・・・。

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第二阪神線(その4) [夢のあと]

 かなりくたびれてきたので、特急と普通を乗り継いでまっすぐ大物へ。西宮、今津(写真は阪急今津駅)
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その他は今日は素通りします。

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第二阪神線(その3) [夢のあと]

 石屋川-御影間の高架構造を見ます。前回、御影に来た時は生憎の雨
http://ho-blog.blog.so-net.ne.jp/2014-09-23
でしたが、今回は曇り空ながらなんとか持っています(ただ、あとで知ったのですが関西は、この日ついに梅雨入りしたようです)。
 高架の北側を石屋川方面に。
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第二阪神線(その2) [夢のあと]

 岩屋から地上へ出ると、御影までほぼ直線の高架が続きます。
 大石駅
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第二阪神線 [夢のあと]

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 阪急と阪神の争いは国道線をはじめとする多数の路線の免許申請合戦(全部の路線が開通していたら、供給過剰で両社共倒れになっていたかもしれません)から、客引き合戦まで多岐に亘りましたが、その中で阪神は、建設途上の阪急神戸線(1920(大正9)年、梅田-上筒井間開業)、そして電化工事を進捗させていた東海道線(1934(昭和9)年、吹田-須磨間で運転開始)に対抗し得る高速新線(第二阪神線)の建設を計画します。

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