SSブログ

三条大橋東詰の乱(その5) [夢のあと]

京都電燈vs京都市
san25.JPG
(写真は、現在の三条京阪から出町柳方面。)
京都電燈は、1914年に福井で越前電気鉄道を開業後、1918年に嵐山電車軌道を合併して京都での鉄軌道事業に乗り出すと、1925年には叡山本線の出町柳-八瀬間を開業します。
eide03.jpg
(現在の叡電出町柳駅。この写真3度目です。)
ただし出町柳は仮の終点で、京都電燈は、最終的には三条大橋東詰への進出を目論んでおり、おそらくは叡山本線の敷設免許取得と前後して、出町柳から鴨川左岸、途中、冷泉通からは京都市が改築した鴨川と琵琶湖疎水との間の築堤上を南下して三条大橋東詰に達する延長線の免許も取得しています。
ところが、この路線延長には京都市会が異議を唱えます。前回書きましたように市会は、京都市電と京阪本線との平面交差を問題視しており、叡山本線が延長されると、さらに市電の今出川線、および丸太町線との平面交差が増えることになるためです。
また京都府も、前回書きましたように、景観問題で京都市の市電三条-丸太町間を止めさせた経緯がありますので、この路線延長には反対の立場だったと思われます。
そして市会は、延長線の地下化を求めますが、当時、鉄道の地下化は1925年開業の宮城電気鉄道の仙台駅付近を嚆矢として、早川徳次の東京地下鉄道(のちの銀座線上野-浅草間)もいまだ工事中の段階(1927年開業)であり、当時の技術水準からすると、この市会の要求はほぼ難癖に近いものでした。
そこで京都電燈は京都市と(そしておそらくは京都府とも)粘り強い交渉を重ねて、地上線での建設を認めさせた上、路線延長のための資材も準備していたといいます。
ところが、1934年の室戸台風、そして1935年の鴨川大水害により鴨川の堤防が決壊したり、琵琶湖疎水との間の築堤が流されたりする大きな被害が発生すると、その復旧が優先され、京都電燈が準備した資材もそれに流用されて、延長は後回しになり、しかもその後は、中国での戦局の悪化により、路線延長どころではなくなってしまいます。(この項つづく)

京都の電車―市電・嵐電・叡電・京津電車

京都の電車―市電・嵐電・叡電・京津電車

  • 出版社/メーカー: トンボ出版
  • 発売日: 2020/04/05
  • メディア: 単行本



nice!(83)  コメント(3) 

nice! 83

コメント 3

hideta-o

nice!をいただいた皆様、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-04-07 09:06) 

烏丸文麿(電車ごっこ♪)

はじめまして。
鉄道史は興味が尽きなく、楽しく拝見させていただきました。
単なる組織論ではなく、血の通った人同士のやりとりを想像するとおもしろいなと思いました。
またおじゃまさせていただきます。
by 烏丸文麿(電車ごっこ♪) (2020-04-12 16:39) 

hideta-o

烏丸文麿さま
ご訪問ありがとうございます。帝都高架、今後の進捗を楽しみにしております。またご訪問させていただきます。
by hideta-o (2020-04-12 21:42) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

窓を開けて三条大橋東詰の乱(その6) ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。