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坂の上の…(その12) [艦]

  ペーパークラフトの畝傍を組み立てた(写真手前)。
 写真奥の鎮遠と比べて全長が長い上、全幅は鎮遠の半分程度しかなく、非常にスマートでいかにも早く走れそうな艦型をしている。
 しかしこの艦型と、左右両舷に2門ずつ船体のわりに大きな24cm砲を備えていたこととが命取りになったと考えられている。
 仮説であるが、南シナ海で発生した低気圧(季節外れの台風かもしれない)によって揺られ続けた畝傍の艦上で、何かの拍子に左右いずれかの舷の主砲の固定が外れ、長い砲身が回転して船外に飛び出す等してバランスが崩れたところに大きな横波を受けて一瞬にして転覆、沈没したのではないだろうか。
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 畝傍を組み立てながら、原型どおり汽帆船にするかどうか悩んだ(結局は原形通り汽帆船として組み立てたが…)。
 写真のように鎮遠と仲良く並ばせるためには、架空の設定として畝傍が無事日本に到着して日清戦争を生き抜かなければならない。
 しかし日清、日露の両戦役を通して帝国海軍が練り上げつつあった一糸乱れぬ艦隊運動を実行する際に、1艦だけ半分風任せの汽帆船が入っているのは不都合であろう。
 おそらくフランス側は巡洋艦の本来の用法、つまり単艦で一匹狼として敵海域に出没して通商破壊活動をすることを想定して、長期の航海に適した石炭消費量の少ない汽帆船を提案してきたと思われる。
 ところが帝国海軍は日清戦争当時から昭和20年の敗戦に至るまで、巡洋艦を少し小さいが足の速い戦列艦(戦艦)として使用することのみを想定しており、仮に畝傍が無事横須賀に到着したとしても、汽船への改修は免れなかったであろう。鹵獲された鎮遠と並ぶ畝傍は汽船だったはずである。
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坂の上の…(その11) [艦]

 タイトルに惹かれて島田荘司「ロシア幽霊軍艦事件」を読んだ。大正7年の芦ノ湖に突如ロシア軍艦が現れて一夜にして消えたという奇想天外なトリックの謎解きを軸として、ロシア革命によるニコライ2世一家の悲劇、特にある皇女の数奇な生涯を描いた小説である。

 ちなみにロシア軍艦といえば、バルチック艦隊の一員としてはるばるバルト海から回航されて日本海海戦に参戦した防護巡洋艦「アブローラ」が今もサンクトペテルブルグで保存、展示されているらしい。
http://www.aurora.org.ru/
 「アブローラ」は、日本海海戦において大きな損傷を受けながらもフィリピンのマニラに逃げ込んでその地で抑留。戦後ロシアに返還されたものの第一次世界大戦中に乗組員の造反が発生し、それが十月革命のきっかけの一つとなったことから、ソ連邦によって革命を記念するために保存されて現在に至っているとのこと。こちらも数奇な運命を辿っている。

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坂の上の…(その10) [艦]

 明治中期、対清戦争に備えて帝国海軍が最初に用意したのが浪速、高千穂、畝傍の3艦である。
 このうち英国アームストロング社で建造された浪速、高千穂は無事日本に来着したが、仏国フォルジ・エ・シャンティエ・ドゥラ・メディテラネ社で明治19(1886)年に竣工した畝傍は同年日本に向けて回航されるが、シンガポールを出航後に消息を絶ち、遂に日本に到着することはなかった。
 海域には沈没の痕跡もなく、行方不明の原因は未だ謎のままである。
 この事件は明治の日本人に大きな衝撃を与えたらしく、その後も長く様々な巷説が取り沙汰されている。例えば西郷隆盛が畝傍に乗って戻ってくるといった類の噂である。日露戦争当時にも、畝傍がバルチック艦隊に参加して日本を攻めに来るといった噂があったらしい。
 またこの事件は文壇にも様々なインスピレーションを与えている。日本のSF界の嚆矢とされる押川春浪の「海底軍艦」シリーズにもこの艦を扱った物語があるらしい。
 最近では伴野朗が「九頭の龍」という冒険小説で畝傍を取り上げている。
 ちなみに押川春浪、伴野朗がいずれも秋山真之ら坂の上の雲の主人公たちと同じ愛媛松山の出身であることは、まぁ単なる偶然であろう。



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坂の上の…(その9) [艦]

 衝角といえば、幕末の日本に渡来して戊辰戦争期にその名を轟かせた「甲鉄(艦)」(別名「東艦」)という軍艦がある。アメリカ南北戦争の際に南軍がフランスで造らせた甲鉄艦で、船体の割に大きな衝角を備えており、舳に備えられた1門の28cmアームストロング砲とともに、まさに突撃用といってもよい姿をした艦であった。
 徳川幕府が買い取って日本に回航されるが、そのときには既に戊辰戦争が始まっており、米国は局外中立の立場をとって新政府側、旧幕府側のどちらにもこの艦を引き渡さなかった。しかし旧幕府側の奥羽列藩同盟が崩壊するに及んで明治新政府側に引き渡され、榎本武揚率いる蝦夷共和国軍との函館戦争において、新政府側の主力艦として活躍している。
 しかし幕府側も新政府側も、この艦の敵弾を跳ね返す強力な装甲のみを評価し、突撃兵器としての衝角を利用することは考えていなかった節がある。戦歴を見ても衝角を使おうとした痕跡が見られない。
 それだけでなく、函館戦争に先立つ宮古湾海戦では、逆にこの艦を奪取しようとした榎本軍の軍艦「回天」による突撃を受けている。尤もこの突撃は、相手の回天が木造艦でしかも衝角を備えていなかったため「甲鉄」はなんらの損傷も受けなかったのであるが…。
 幕府海軍の創始から「甲鉄」購入の顛末、そして明治新政府の海軍創設あたりまでの歴史を判りやすく解説されているのが下記の本である。



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坂の上の…(その8) [艦]

 日露戦争後に、軍艦の構造上で大きく変化した箇所がある。衝角(ラム)と呼ばれる、水線下で舳から前方に突出するように設けられた文字通り角のような構造物である。
http://www.geocities.jp/ironclad_tripod/Photoalbum/album06.htm
 日露戦争期までに造られた鋼製艦の殆どはこの衝角を備えているが、その後に新造される軍艦には徐々に採用されなくなって行き、第一次世界大戦を経てワシントン海軍軍縮条約によって旧式艦が優先的に廃棄されることで、1920年代には殆ど姿を消している。この変化は日清、日露の戦訓よるところが大きいと思われる。
 衝角は、敵艦に体当たりをしてその艦底を突き破るためのものであり、軍艦が衝角を備えると言うことは、日清戦争頃までの海戦が例えば映画「パイレーツオブカリビアン」に見るような昔ながらの接近戦をも想定したものであることを意味している。接近戦の際に、あわよくば敵艦に衝角を突き立てて沈めてしまおうという算段である。
 しかし鋼製艦の発達とともにこの時期、艦砲についても飛躍的な進歩があり、射程数千メートル(当たるか当たらないかは別にして)といった長射程の砲が開発されるに至り、遠距離間での砲戦が海戦の主戦法になると、衝角は無用の長物となる。
 それだけでなく衝角は、遠くの敵より近くの味方を傷つける両刃の剣にもなってしまう。実際、日露戦争の黄海海戦において巡洋艦吉野が味方である巡洋艦春日の衝角によって艦底を破られて沈没している。


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坂の上の…(その7) [艦]

 「扶桑」に続いて「鎮遠」を組み立てた(写真手前)。ほぼ同スケール(約1/800)で作った扶桑(写真後ろ)と比べると、その大きさとそれに比べて異様に平べったいフォルムがよく判る。
chenyuan1.jpg
 鎮遠は明治18(1885)年、独逸フルカン社製。30.5cmの主砲4門を備え、当時東洋最大最強の巨艦で、姉妹艦「定遠」とともに清国北洋水師の主力として黄海に君臨。
 日清戦争の黄海海戦では連合艦隊主力の三景艦(松島、橋立、厳島)や高速巡洋艦吉野と渡り合い、旗艦松島に損害を与えるなど善戦するもその後威海衛沖で座礁。捕らえられて戦後に帝国海軍に編入され、扶桑と同じ二等戦艦に分類されている。
 日露戦争には帝国海軍の一員として参戦し、日本海海戦にも嘗ての敵である三景艦とともに第3艦隊第5船隊を編成して参加している。


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坂の上の…(その6) [艦]

 明治期の軍艦を探してネット上を彷徨っていたところ、こちらのサイト
http://www.tamasoft.co.jp/pepakura/
でペーパークラフトのデータが無料配布されているのを見つけた。
 とりあえず「扶桑」のデータをダウンロードして組み立ててみた。
fuso1.jpg
 扶桑は明治になって初の新製装甲艦で明治11(1878)年、英国サミューダブラザース社製。日清戦争当時すでに旧式艦であったものの日清、日露の両戦役に参戦し、日本海海戦にも第3艦隊第7戦隊旗艦として旧式の砲艦を率いて参加している。


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坂の上の…(その5) [艦]

 潜水艦でもう一つ思い出す話がある。我が潜水艦隊が壊滅してからおよそ三十数年後、観光でハワイ諸島を訪れた時のことである。
 オアフ島の真珠湾に係留、保存されている戦艦ミズーリ
http://www.ussmissouri.com/
を見学するというツアーがあり、それに参加した。
 その際、日本の出身で、米国海軍の軍人さんと結婚してこちらに住まわれている女性の方がガイドとして案内してくださったのであるが、彼女の話によると海軍の中でも潜水艦乗りだけは特殊で、同じ艦の乗組員と家族が1つのアパートにまとまって住まわされ、四六時中顔を突き合わせて生活しているとのこと。やはり潜水艦は軍艦の中でも危険性が高いため、このような措置がされているのであろう。


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坂の上の…(その4) [艦]

 サブマリン707は電動モータを内蔵し、潜航と浮上を繰り返しながら航行する自動浮沈機構というものを備えた高級艦で、昨年亡くなった父に組み立ててもらった。それを、確か夏休みだったかに父の実家のある京都に帰省し、円山公園の池で試験航海をした際に二度目の悲劇が発生した。
 潜航をしたまま浮上しなかったのである。サブマリン707帰投せず!
 その場で父に引き上げてもらって家に持って帰ったが、それ以来、潜水艦というか船に対する熱意はすっかり醒めてしまったようで、その後一度だけ南極観測船ふじの簡単なプラモデル(水中モーターで航行可能)を作って以来、艦船模型とは縁がない。


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坂の上の…(その3) [艦]

 昔から艦船模型とはあまり縁がない。小学校低学年の頃にプラモデルの潜水艦隊を所有したことがあったが、その艦隊が悲劇的な結末をむかえたことが原因かも知れない。
 艦隊に何艦所属していたか記憶が定かではないが、イ号潜水艦、シービュー号、それにサブマリン707が在籍していたことは覚えている。USSノーチラスもあったかも知れない(国籍も時代設定もばらばらである)。
 前の二艦はゴム動力の簡単な模型で、自分で作った。このうちイ号潜水艦を作り、近くの銭湯に試験航海にでかけたときに最初の悲劇は発生した。
 詳しい状況は覚えていないが、たしか小学校の同級生を見つけたように思う。それでその友達に向かってイ号を発進させたところ、潜航しながらどんどん深度を下げてゆき、なんと湯船の底付近にあった排水口に吸い込まれてどこかに行ってしまったのである。イ号潜水艦浮上せず!
 たぶん、泣きながら家に帰ったであろう。翌日、学校の帰りに前を通ったとき、銭湯のお兄さんが突然現れてイ号を返してくれた。そのとき、なぜか蒸気機関車のプラモデル(たぶんエアフィックス製)を組み立てたものを一緒にもらったことを覚えている。



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