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福澤桃介(その2) [坂の上の]

 渡米から二年後の1889年に留学を切り上げて帰国し、祝言を挙げると、桃介は諭吉の紹介で北海道炭鉱鉄道に職を得て房と共に北海道に移り住む。月給100円(普通のサラリーマンの3倍)という破格の待遇であった。
 しかし社内の内紛の影響で、減給されたり解雇されたり、はたまた再雇用されたりするといった不安定な状況が続いた上、売炭係として東京へ戻ることになる。
 ここまでの紆余曲折には、諭吉の、会社や桃介への指示によるものが多く含まれており、この時点で桃介は、そのなすがままにされている感がある。しかも諭吉は、これらのことを桃介のためを考えてではなく、全て実の娘の房のために行っていた節がある。明治の思想界に偉大な足跡を残した福澤諭吉ではあるが、子煩悩、親バカ(それも人並み以上の)は彼の殆ど唯一の欠点であった。
 それでも桃介は、東京出張所において新たな客先の開拓などに手腕を発揮する。また日清戦争が勃発して日本船籍の船舶が殆ど徴用されてしまい、石炭を運ぶ船舶が不足する中、日本近海にいた外国船籍の船舶をチャーターするという、当時だれも思いつかなかった手を使って舟運を確保するなど、会社のために大いに貢献する。
 ところがこれに勢いを得て新たに購入した新しい石炭運搬船のお披露目の席上で、彼は最初の喀血をする。当時、死病といわれた肺結核であった。妻と子を福澤の実家に帰し、会社も退職して療養生活に入る。
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