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ケネディ家の呪い [いまさら読書]

ボストン出身者といえば、まず思いつくのが第35代合衆国大統領ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ(JFK)。

JFKに繋がる米国のケネディ家は、アイルランドのジャガイモ飢饉から逃れて1848年にボストンに上陸した、カトリック系移民のパトリック・ケネディ(1823-1858)を始祖とします。
しかし当時のボストンは、17世紀にイングランドからきたプロテスタント、中でもボストン・ブラーミンと呼ばれた上流階級が長年に亘って支配してきた街でした。
そのため、遅れて街にやってきた、異民族(アイルランド人はケルト人)で宗旨も違うカトリック系アイルランド移民だったパトリック達は様々な差別を受けます。たとえば市内には、公然とアイルランド人の利用を拒んでいだ店も多くあったようです。
そんな中、パトリックの二男、第二世代のパトリック・ジョセフ(1858-1929)は港湾労働者から身を起こし、そうしたアイルランド人向けの飲食店からスタートして、やがて上流階級の人たちも利用するレストランなどの経営にも手を広げてゆきます。
そして、アイルランド系のコミュニティの中で重きをなすようになり、ついにはマサチューセッツ州の下院議員、そして上院議員を歴任することになります。
パトリック・ジョセフの長男で、第三世代であるジョセフ・パトリック(1888-1969)が生まれたとき、すでにケネディ家は裕福で、彼は、上流階級の子弟も通う一流高校から、ハーバード大学に進学します。
ハーバードをはじめとする米国の大学には、古くから学生たちの社交クラブがあり、ジョセフ・パトリックも多くのクラブに入会しますが、ボストン・ブラーミンの子弟が集う一流クラブからは入会を拒否されてしまいます。彼の家がいくら裕福になっても、依然として、カトリック系アイルランド人であるという彼の出自に対する差別は続いていたのです。
そのためか、大学を卒業したジョセフ・パトリックは、さらに金と権力とを手に入れるため、父の口利きで入った金融関係の仕事を皮切りに、株式取引、不動産投資、あるいはハリウッドの映画産業への投資などに手を広げ、さらに禁酒法時代にはマフィアと手を結んでまで、莫大な利益を得ます。
そして集めた資金をフランクリン・ルーズベルト(1882-1945)に援助して彼の大統領当選を手助けし、論功行賞として証券取引委員会委員長、駐英国大使などの地位を手に入れます。
また私生活では、ボストンのアイルランド系コミュニティのもう一人の大物で、ボストン市長を務めるなどしたジョン・フランシス・フィッツジェラルド(1863-1950)の長女ローズ(1890-1995)と結婚して、4男5女計9人の子を儲けます。
ところが、この第四世代の9人の多くは、天寿を全うすることなく若くして亡くなるなど、後世、ケネディ家の呪いといわれる様々な不幸に見舞われます。(この項つづく)

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hideta-o

nice!をいただいた皆様、ありがとうございます。
by hideta-o (2021-04-04 13:42) 

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