デボ1(その3) [近鉄]
DDFのデボ1で気がついたもう1つの点は、ご覧のように
阪急の51形とよく似ていること。
それも単に似ているといったレベルではなく、台車こそ、大軌デボがボールドウィンに対して阪急はブリル27MCB-2と違っていますが、車体寸法や台車中心間距離などの主要寸法が同じである上、窓配置も同じで、しかも窓や扉、それに屋根の造作なども同じであって、ほぼ同系車といえます。前回のリストに追記した下記をご覧ください。
(1) 大軌デボ1~15:1914年、汽車製造、15両
(2) 大軌デボ16~18:1914年、梅鉢鉄工所、3両
(3) 大軌デボ51~55:1918年、梅鉢鉄工所、5両
(4) 大軌デボ19~28:1920年、川崎造船所、10両
(4') 阪急51~62:1920年、梅鉢鉄工所、12両
(5) 大軌デボ61~102:1922-1923年、川崎造船所、日本車輛製造、藤永田造船所、42両
つまり阪急51形は、大軌デボ系と同時期に、デボ16~18、51~55を製造した梅鉢鉄工所で製造されているのです。
基本設計は、汽車製造+大軌かと思われますが、その図面を流用して阪急51形も製造されたのではないでしょうか。
他社の図面を流用して電車を製造することがありえるか、という疑問も生じますが、実は、創業当時の大軌と、阪急の前身である箕面有馬電気軌道とは兄弟会社ともいえる関係でした。
すなわち箕有は専務の小林一三、大軌は支配人の金森又一郎という、同い年の2人が実際に会社を運営していたものの、両社とも、実際のオーナーは北浜銀行を主催していた岩下清周であり、ともに北浜銀行の系列会社でした。
もっともこの関係は、大軌の生駒トンネル落盤事故に端を発する北浜銀行の経営破綻の責を問われて、岩下が1914年に失脚すると表面上は解消されますが、その後も両社の間で交流は続いていたと思われます。
そしてその流れの中で、神戸線を開業する際に、箕有1形よりも高速走行に適した車両のモデルとして、阪急が、大軌デボの設計を各社の合意のもとに流用したのではないでしょうか。
51形が12両で終了し、阪急が、続く63形では角型で前面3枚窓の自社オリジナル設計を取り入れていることからも、51形が応急的な導入だったことが伺われます。
阪急の51形とよく似ていること。
それも単に似ているといったレベルではなく、台車こそ、大軌デボがボールドウィンに対して阪急はブリル27MCB-2と違っていますが、車体寸法や台車中心間距離などの主要寸法が同じである上、窓配置も同じで、しかも窓や扉、それに屋根の造作なども同じであって、ほぼ同系車といえます。前回のリストに追記した下記をご覧ください。
(1) 大軌デボ1~15:1914年、汽車製造、15両
(2) 大軌デボ16~18:1914年、梅鉢鉄工所、3両
(3) 大軌デボ51~55:1918年、梅鉢鉄工所、5両
(4) 大軌デボ19~28:1920年、川崎造船所、10両
(4') 阪急51~62:1920年、梅鉢鉄工所、12両
(5) 大軌デボ61~102:1922-1923年、川崎造船所、日本車輛製造、藤永田造船所、42両
つまり阪急51形は、大軌デボ系と同時期に、デボ16~18、51~55を製造した梅鉢鉄工所で製造されているのです。
基本設計は、汽車製造+大軌かと思われますが、その図面を流用して阪急51形も製造されたのではないでしょうか。
他社の図面を流用して電車を製造することがありえるか、という疑問も生じますが、実は、創業当時の大軌と、阪急の前身である箕面有馬電気軌道とは兄弟会社ともいえる関係でした。
すなわち箕有は専務の小林一三、大軌は支配人の金森又一郎という、同い年の2人が実際に会社を運営していたものの、両社とも、実際のオーナーは北浜銀行を主催していた岩下清周であり、ともに北浜銀行の系列会社でした。
もっともこの関係は、大軌の生駒トンネル落盤事故に端を発する北浜銀行の経営破綻の責を問われて、岩下が1914年に失脚すると表面上は解消されますが、その後も両社の間で交流は続いていたと思われます。
そしてその流れの中で、神戸線を開業する際に、箕有1形よりも高速走行に適した車両のモデルとして、阪急が、大軌デボの設計を各社の合意のもとに流用したのではないでしょうか。
51形が12両で終了し、阪急が、続く63形では角型で前面3枚窓の自社オリジナル設計を取り入れていることからも、51形が応急的な導入だったことが伺われます。
2020-03-08 10:06
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コメント(1)
nice!をいただいた皆様、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-03-10 08:41)