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三条大橋東詰の乱(補遺の補遺) [夢のあと]

ハマコウさんがこちらの記事
https://ya42853.blog.ss-blog.jp/2020-01-18
で紹介されていた「京都近代の記憶」(中川理 思文閣出版)、読みました。

京都 近代の記憶

京都 近代の記憶

  • 作者: 中川 理
  • 出版社/メーカー: 思文閣出版
  • 発売日: 2015/09/30
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


序文の文章が刺激的です。曰く「京都はよく「千年のみやこ」と言われる。確かに平安京ができて千年以上たつ都市である。しかし、平安京の姿そのままの遺構など実はどこにも残されていない...。」そして現在の京都は、「東京遷都により没落の危機に見舞われ、都市改造や近代建築の導入に積極的に取り組む一方で、まさに生き残りを懸けて「千年のみやこ」を演じてきた街」だと。
まさに至言でしょう。観光で京都へ行くと気持ちのいい理由がこれでわかりました。
最近できたそんじょそこらの観光地と比べて、積み重ねてきた努力の質も量もけた違いに大きく、深いのです。まさに観光地の最終形態が京都といえましょう。
で、この本を読んで、鴨川に架かる4つの大橋が明治以降も江戸時代の様式、つまり擬宝珠の有無を維持してきた理由の一端が判りました。
それは京都市と京都府の、京都の街並みに対する当時の方針の違いにあったようです。
つまり三条大橋、五条大橋は、それぞれ国道、府道に通じていたため京都府の管轄、四条大橋、七条大橋は町橋だったため京都市の管轄となります。
この時代、京都市は「京都の近代的改造を積極的に目指し」ていたため、四条大橋、七条大橋を、ほぼ同じ形状の近代的なコンクリートアーチ橋として、1908(明治41)年に架橋します。両橋が町橋で、設計の制約、つまり擬宝珠を飾る必要がなかったことも、その一助になったと思われます。
一方の京都府は、上に書きました「千年のみやこ」を演じるための「風致保存」を当時から強く打ち出していたため、コンクリート製ながら、秀吉が架橋した当時の様式(桃山様式)を採用したのです。
その後、4つの橋は様々な曲折を経て現在に至りますが、擬宝珠の有無は維持されます。
すなわち四条大橋は、1935(昭和10)年の鴨川水害で、上流から流れてきた流木などによって閉塞されて氾濫の原因となったため、河川改修に合わせて架け替えられ、さらに1942(昭和17)年に再度架け替えられて現在に至ります。
また、五条大橋は鴨川水害で流され、仮橋が架けられた後、1940(昭和15)年にかけ替え、さらに1959(昭和34)年には五条通の拡幅に合わせて架け替えられていますが、擬宝珠は、正保年間のものと明治に作り直されたものが再び取り付けられています。
七条大橋は、基本的に1908(明治41)年に架橋された橋のままですが、1989(平成元年)、京阪本線の地下化、川端通の開通を目的とした河川改修により1径間分短くなっています。
三条大橋は、現在の橋本体は1950(昭和25)年に架橋され、木製の欄干は1973(昭和48)年に更新されたものですが、老朽化が進んでおり、更新が検討されています。

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コメント 3

ハマコウ

こんばんは。ご紹介いただきありがとうございます。
「京都近代の記憶」は「近代」に焦点を絞った面白い本ですね。
鴨川の「橋」について気づかせていただいたこと、次回京都に行くときの楽しみとなっています。

by ハマコウ (2020-02-01 21:57) 

hideta-o

ハマコウさま
「京都近代の記憶」たいへん参考になりました。ありがとうございました。
by hideta-o (2020-02-02 16:59) 

hideta-o

nice!をいただいた皆さま、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-02-02 16:59) 

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