三条大橋東詰の乱 [夢のあと]
京都市が保有していた軌道敷設の特許を20年間の期限付きで借用して、京阪電気鉄道が五条から三条大橋東詰(写真奥の鴨川対岸)に達したのが1915年。このとき、同地には既に1912年に、逢坂山方面から京津電気軌道が到達しており、さらに1924年には京都電燈が、傘下の叡山電気鉄道の路線を出町柳から延長する免許を取得して三条大橋東詰を目指します。
各社が三条大橋を目指したのは、ご存じのように当地が東海道五十三次の終点で、江戸時代から続く交通の要衝であり、しかも京都随一の繁華街だったためです。
たとえば江戸から東海道を辿り、逢坂山を超えて三条大橋
に達し、三条大橋を西へ渡ってさらに三条小橋
を過ぎれば、幕末の池田屋事件で有名な池田屋
などの旅籠が立ち並ぶ宿場町、三条小橋の手前で左へ折れれば先斗町、さらに三条大橋を渡らずに鴨川左岸を南へ向かえば祇園町という、いずれも京都を代表する花街が広がっていました。
この状況は明治時代に入っても変わらず、さらに三条通とその周辺には、
京都郵便電信局(1902年)
日本銀行京都支店(1906年)
第一銀行京都支店(1906年)
日本生命京都支店(1914年)
不動貯金銀行京都支店(1915年)
京都中央電話局(1926年)
毎日新聞社京都支局(1928年)
などが次々と建てられ、1920年には、三条通と烏丸通の交差点に京都市の道路元標
が設置されて、京都の中心であることが公式に認められます。
また民間でも旧来の木造建築
だけでなく、木骨ながら煉瓦造りの家邊徳時計店(1890年)
や西村貿易会社(1920年)
などが建ち並びます。そして琵琶湖疎水の水力を利用した蹴上発電所(第一期:1891年、第二期:1912年)、夷川発電所(1914年)からの電力によって、これらの町々が照らされることになります。
まさに京都の文明開化は、この地から始まったといっても過言ではありません。そして京阪電気鉄道、京津電気軌道、京都電燈の各社が、三条大橋を目指したことも妥当といわざるを得ません。
しかしこの3社の路線延長計画に、市内交通の独占を目指した京都市が立ちはだかることになります。(この項つづく)
2020-01-18 14:37
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コメント(5)
東海道五十三次の終点が三条でしたか?
観光客の目線では、祇園や南座、八坂神社のある四条の方が華やいで見えましたので、三条は軽視してしまっていました。
by ヨッシーパパ (2020-01-18 18:17)
ヨッシーパパさま
ご訪問ありがとうございます。
旧東海道は大津宿から京阪京津線に沿って(というか京津線が旧東海道に沿っているのですが)、逢坂山を越えて三条通につながっており、東海道五十三次の終点は三条大橋です。有名な広重の浮世絵も、最後は三条大橋ですね。
https://shikinobi.com/wp-content/uploads/2016/04/53_55.jpg
by hideta-o (2020-01-18 20:45)
nice!をいただいた皆さま、ありがとうございます。
by hideta-o (2020-01-19 21:37)
京津線は地下鉄に変わってから利便性が低下しましたね。運賃は上がるわ、電車にたどり着くのに一苦労させられるわで改悪としか思えません。市当局による市内交通独占の弊害でしょうか。
by サットン (2020-01-22 18:09)
サットンさま
おっしゃる通りだと思います。これから、そのお話を「三条大橋東詰めの乱」で綴ってゆこうかと考えています。
by hideta-o (2020-01-23 08:47)